■ 第14回 木下 美穂里 ・・・・・・・・・・・ vol.32 2000年10月 |
真夏のイベント。ディズニーランドの新しいホテルで「木下ユミ50th」のお祝いがとても感動的に開催されました。この催しを見事な環境創造と時代感覚を発揮して、独自のこだわりを随所に施し、まとめ上げたのが、長女の木下美穂里さんである。「ユミ(個人)の功績伝承と、夢を売るユミ・クリ(会社)のアピール」というテーゼは、パーテイでの好みの構成と演出、そしてVTRに集約されていました。 先日、田中優子さんが久しぶりに帰ってきて、美穂里と感動的な再会をしたときに、懐かしく思いだしました。協会の創生期に、ネイルを普及させるためには、まずはテキスト創りから、と言うことで、20代の若手会員に手伝ってもらいました。それが、優子と美穂里、それに、沢野智恵(現・北村)、斉藤直見(現・萩原)のとてもスマートな4人でした。初の試みだったので苦労の連続でしたが、雑魚寝をしながら頑張ってくれて、ご存じの懐かしい「ケア」・「アート」・「イクステンション」の3冊のテキストと「ネイルテクノロジー」の作品写真付の翻訳本が完成しました。14−15年位前のおハナシ。それ以来のお付合いデス。 俳優の木下秀雄・メイクの木下ユミを両親に持つ、いわゆる業界育ちの美穂里さんは、小さいときから「絵を画く人になりたい」と、ずーと思っていたそうで、高校時代は放課後、毎日、絵の専門学校に通っていました。当時は、テレビのドラマや番組にて、ユミビュアックス全盛時代で、テレビ局の親の仕事場をのぞくと、大好きなタレントに会えたり、現場のエネルギーに触れた時、ひとつの作品を作り上げていく魅力に心ひかれ、大学にて、写真を専攻、きちんとしたコンテが描け、それを具現化できる技能を身につける為に、メイク、ファッションの書物を読みあさり、特殊メイクのレッスンを受け、時間があれば、スタジオでアシスタントをしていました。 そんな美穂里さんも、順風まんぷで本日に至ったのではない。 会社の再編時に流した悔し涙。原宿の教会での感動的な結婚式、一粒種のTOKIO君誕生の幸せもつかの間、思わぬ大病にみままれたが、「自信家でコウマンチキな、お嬢様ぜんとした私を、神様が゛叩き直してやる゛と、お仕置きしてくれた」と思い、それらをバネにして見事立ち直り、今回のイベントにも好影響を与えてくれた。 近未来について美穂里は云う。「私が若い頃、行きたかった学校を実現したい。現在のスクールをレベルアップさせ、レベルの高いトータルビューティを提案できる人を育てていきたい。そして、トレンドを読みとり、ビジユアルが見られ、商材を理解でき、商品開発にたづさわれる能力を身につけさせること。そして、ユミのシステムをきちんと伝え、優秀な人材を育てられる拠点を全国各地を始め海外にも創っていく」目標は聡明で限りなく大きい。 さらに、若いネイリストたちに一言。「もっとアイデイアと工夫を持ってください。そして材料の特性を知り尽くすことです。自分にかけたお金は必ず戻ってきます。学ぶことはやめないでください。一生、技(ワザ)を磨き、そして後輩に引き継ぐことです」 ネイルの魅力は、とても小さな、ささやかなモノだけど、指先が美しい、仕上がりが気に入るだけで、幸せを感じさせる魔力がある。 「ネイルアート」と云う言葉がネイリストの世界から離れて顰蹙をかっているが、それを「ネイルのメイクアップ」として位置づければ、無限の可能性があり、美容界を飛び越えファッション界の一翼を担う迄、大化けする可能性を秘めている。
新世紀において、それを具現化できる貴重なスキルの持ち主として、今は日々の生活の中に幸せを感じる余裕が持てたという、美穂里にあえてプレッシャーをかけておこう。
<2000年10月記 原文>
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