■ 第4回 ジム・ジョージ [WINBA] ・ vol.22 1998年4月 |
アメリカン・ネイルを語る場合、どうしても欠かすことの出来ないのがジム・ジョージ。ご存じの「WINBA(ウインバ)」の主宰者である。 四年前に愛妻を亡くしてから、徐々に弱気になり、それまでのヨシオ(水野義夫)や協会幹部とのつき合いを無視して、一年契約で称号使用権を日本のビジネスマンと契約してしまったので、ネイル業界に混乱を招いてしまった。原宿・表参道の学校には"カリフォルニア州のライセンスが取れる"のキャッチフレーズがネイリスト志望者たちのハートをくすぐり、高額の学費にもかかわらず応募者が殺到し社会的にも問題視されるに至りました。 これが、協会システムの拡充、認定校のシステム強化には一石を投じる形にはなったが、いろいろな弊害と共に、結果的には、日本からのカリフォルニア州のライセンス修得が、不可能になってしまいました。このお騒がせのジョージは、1940年サンフランシスコで生まれて、ロングビーチ州立大学を卒業し、ネバダ州ラスベガスで3年間ポリス(警察官)をしていた。 ネイル業界に入ったのは、ネイリストであった奥さんがラグナビーチでネイルサロンを初めたところ大きな反響があったのがきっつかけで、1978年にネイル専門問屋「ネイル・エンポリアム」を設立。
81年に世界で初めてのネイル専門のトレード・ショウ「WINBA」を結成し、以来、毎年6月にアナハイムにて開催。自ら<キング・オブ・ネイル>を名乗って一世を風靡させていました。 協会では、WINBAの正式名が、ワールド・インターナショナル・ネイル&ビューティ・アソシエイション、と云う全米で唯一協会を名乗っている組織であることから、毎年コンペのチャンプを派遣させていたことで、知名度アップに貢献してきたことが利用される結果となってしまった。
今では、さすがの大男(240£)ジョージも反省しきりで、カタカナの類似名称問題などで、頭が痛いところだが、協会との新たな協力体制と、国際組織設立のバックアップを確約した。
しかし「これからはエンペラー・オブ・ネイル、と呼んでくれ」とのこと。まだまだ油断のできない男である。
<1998年4月記 原文>
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